<若者力大賞受賞者インタビューvol.2>:織田友理子さん、洋一さん(第8回若者力大賞 ユースリーダー賞)

■プロフィール

共に1980年生まれ、36歳。

2002年、友理子さんは進行性筋疾患である「遠位型ミオパチー」と診断される。(当時大学4年22歳) 2008年、彼女が発起人の一人として任意団体遠位型ミオパチー患者会(PADM)を設立し代表代行、2013年NPO法人化、2015年PADM代表に就任。遠位型ミオパチーに有効な物質が発見されたのを契機に多くの製薬会社に働きかけ、現在日米の製薬会社が新薬開発に取り掛かっている。また彼女らの働き掛けで遠位型ミオパチーは、2015年から国の指定難病と認められた。さらには、遠位型ミオパチーだけの特例対応ではなく、ウルトラオーファン(患者1000人以下)に対するアプローチや手続きの迅速化のため、厚生労働省や国会議員への働きかけを続けている。また、神経筋疾患分野の国際的組織(TREAT-NMD:本部イギリス)の委員としても活動をしている。

「人のために尽くせる幸せな人になる」という思いから、理解者を増やすことで社会が変わることを信念としている。「みんなでつくるバリアフリーマップ」開発の構想が認められ、Googleインパクトチャレンジでグランプリを受賞した。社会的な認知を高めるため講演や執筆活動も行っている。また、車椅子の人向けにYouTubeチャンネル「車椅子ウォーカー」で、自身が経験した国内外バリアフリー旅行の情報などをこれまでに英語字幕版も含めて120本以上の映像を配信している。

そして、すべての活動には夫である織田洋一氏の大きなサポートがあり、「一緒に居ることで不思議な体験が出来、一緒に活動することが楽しい」と前向きな考えを語り、子育てと友理子氏の活動を、一心同体で支えている。

NPO法人PADM http://npopadm.com/

車椅子ウォーカー http://www.oda-y.com/

■インタビュー内容

――同じように障害を持つ人たちがたくさんいる中で、病気や障害のことで、他の人の役に立とう、このきっかけを使って逆に外に向かって情報を発信しようと思う人はごくわずかだと思いますが、なぜそういう思いに至ったのか教えてください。

 

友理子さん:遠位型ミオパチーと聞いたこともない難病の診断を受けた22歳のときは、日本の中で患者は100人から200人くらいで医師には「生きている間に同病者に会うことはないでしょう」と言われました。当時はまだこの病気の過酷さがわかっておらず、とにかく諦めないで生きていこうと必死でした。それでも非情にも病気は進行していきました。今では1人で立つことはもちろん、食べることも前髪を払うこともできません。今まで全く考えたこともなかった難病・障害の世界を知っていくうちに、これまで過ごしてきた健常者としての世界と、難病患者・障害者となったこれからの世界があまりに乖離していることを知りました。そんな折に2008年に患者会設立の話があり、自分にできることから取り組んでいくうちに、色んな方々と縁するようになり、少しでも社会のお役に立ちたいという思いを強く持つようになりました。障害者は一見お荷物に思われがちですが、実は違う。今の日本の社会が構築されてきたのは、もちろんご尽力下さった方々がいらっしゃるからだというのは大前提だとしても、その陰で泣いた人々/当事者の存在と地道な活動があったからこそです。それは絶対に忘れてはいけないと。

困難さを痛感している身だからこそ分かること、また、できることがあります。私は今まさに難病患者、障害者ですが、たからこそできることがあるはずかな、って。

 

――病気の診断は病院にかかりすぐわかったのでしょうか。

 

友理子さん:すぐわかりました。今36歳で、20歳のときに足がもつれたり、階段の上り下りができなくなって。大学に入ってから好んで運動をすることもなく、運動不足のせいだなと思って努めて運動するようにしていましたが、22歳になってから何も変化がなく、将来を考えていたときに父から「そこまで悪くなるのはおかしいから病院に行きなさい」と言われ病院に行きました。同病者の場合は病院をたらい回しにされ、診断名がつかないことが多いみたいなのですが、私の場合は幸運なことに、はじめに行った船橋市立医療センターに、ちょうど医科歯科大学から医師が週1の診断日だったので、神経内科の医師に診てもらうことができました。診てもらったら「大学病院に来てください。ベッドが空き次第すぐに入院検査します」と。医科歯科大学は遠位型ミオパチーの研究班の先生方がいらしたのですぐに診断がつきました。

 

――すぐに診断がついたのはラッキーでしたね。

 

友理子さん:そうですね。遠位型ミオパチーにも色んなタイプがあり、私はそのうちの空胞型と呼ばれるタイプに当たりますが、日本国内の推定患者はたったの数百人、全てのタイプを合わせても1,000人もいないウルトラオーファン(超希少疾病)です。この病気は知名度が極端に低いために、ALSや他の筋ジストロフィーなど異なる疾患だと誤った診断をされたり、整形外科で筋が伸びたと手術を受けることもあったようで、こんなに早くに診断がついたのは珍しかったと思います。2002年のことでした。

 

診断はついたものの、治療法が何もないこの病気は、進行し徐々に筋力が衰えていくのをただ待つことしかできず、やがて寝たきりになると言われているので、病院に行っても経過観察するしかありません。しかも、2009年に日本の研究者により、マウス実験で有効性を証明された論文が発表されたという朗報を聞いて喜んでいたのですが、当時は超希少疾病のため製薬会社はどこもやってくれないという現状がありました。しかし、きっと患者が声をあげれば変わるはずだと信じて、全国で署名活動等の患者会活動をスタートさせました。

 

色々な方に相談しましたが、「製薬会社は営利企業だから無理ではないか」「希少疾病の薬を作ることは贅沢品ではないのか」「そんなに開発費をかけてでも薬が欲しいのか」「お金がもったいない」などのネガティブな話を耳にしました。しかし製薬会社に勤める知り合いの方の助けもあり各社働きかけをする中、ある製薬会社社長にお受けいただいたことから開発がスタートし、2010年には東北大学で医師主導の治験が始まりました。日本の結果を受け、現在はアメリカの製薬会社も開発してくださっていたりと、どんどん広がり進んでいます。

そのときどきで、いくらでも諦めることができる理由はありましたが、「ウルトラオーファンのモデルケースに」「何もしなければ何も変わらない」というモットーで活動を続けました。懸命に活動を続けていく中で、共感してくださった方々の支援の輪が広まり、治験が最終段階にまでたどり着けました。もし患者会を立ち上げた時点で無理だからと諦めていたら、今はないと思います。

 

 

――オーファンであればあるほど、臨床データはとれないですし、一企業の努力だけでは製薬化は難しい話だと思うので、絶対に国をあげてのバックアップが必要ですが、難病指定になっているのでしょうか。

 

友理子さん:患者会活動の甲斐もありお陰様で新しい制度の下2015年1月から、国の指定難病になりました。他にも、オーファン制度だけではなく、疾患数1,000人未満のウルトラオーファンの制度や支援策を作っていただくよう国に要望しました。

製薬会社の方々は本当に意識が高く話をよく聞いてくださいます。会社を存続させていくことも考えなければならないという状況は理解しているつもりです。しかしどうにか風穴を開け、国の承認審査迅速化や助成金の増額や、少ないデータであっても市販後調査の反映で対応するなどウルトラオーファンに対してはいろいろな方策があると思っています。またここ数年の間に行政の対応も患者会を発足させた当時とは比較にならないほど状況は好転しています。

 

 

――ご自身のミオパチーだけではなく、他にも困っている人はいて、国を動かしていくのは簡単なことではないですよね。

 

友理子さん:PADMは約204万筆の署名を集め、メディアにも多く取り上げていただいたこともありますが、PADMよりももっと患者数が少なくて患者会すら設立できない難病は他にもたくさんあります。難病は5,000以上あると言われています。どの難病も医学の発展により、いつ治療効果が期待されるシーズが発見されてもおかしくありません。なので、シーズが見つかった私たちの事例を通して、どんなに患者数が少ない疾患でも治療薬が開発される仕組みを作らないといけないのです。薬を待ち望んでいる全ての患者の手元に、1日でも早く薬が届くようにモデルケースになることを目標に掲げ、これからも活動を展開していきたいと思います。私たちの事例を通して、日本でもオーファンドラッグの開発ができるように、ということを患者会のミッションにしています。

――現在の活動に至るまでに深い理念はお持ちでしょうか。

 

友理子さん:一つ目は、高校時代の文集に書いた「人のために尽くせる幸せな人になる」です。どれだけ人に対して自分ができることがあるかを探していくことが人生の幸せを決める鍵だな、と思ったことがあります。障がい者になった今、私は何をするにも夫の支えが必要ですし、病気はどんどん進行するので人のためになるということがより一層難しくてすごくもどかしさを感じてしまうことがあります。しかし、今の自分の状況でも何かできるはず、ということを自分自身に問いかけながら探して生き続けていきたいなと思います。

 

 

――ご主人のサポートが大きいですよね。一緒に活動をされているのですか。

 

友理子さん:現在Googleインパクトチャレンジや車椅子ウォーカーにも取り組んでいるので、本当に彼がいないとまわらないですし、私にはない彼の能力を活かしていけるような状況になってきていると思います。3年程前は、私のために彼の人生を使うのが嫌で、外で働いてきてくれればいいのよ、と話し合いというかケンカをしましたね。今は彼がいるからこそプロジェクト遂行や海外出張したりと、二人三脚だからこそ活動ができているので、すごく感謝しています。

 

――患者会の活動、車椅子ウォーカー、Googleインパクトチャレンジといろいろな活動をされていますが、どのように時間を使っていますか。

 

友理子さん:3割が患者会の活動をしていますが、製薬会社と医師らが一生懸命開発してくださっているので、今は私が動いてもプラスにならなさそうです。患者同士で交流の場が持てるようにと理事で相談しあって取り組んでいます。5割をGoogleインパクトチャレンジの活動に使っています。今春に控えているバリアフリーマップアプリ「WheeLog」の開発をアプリ会社へ委託し、車椅子に必要な情報や機能を固めています。このアプリに情報が集まれば集まるほど、車椅子ユーザーはもちろん、ベビーカーや足腰に不安のある方にとっても役に立つアプリとなると信じています。残りの2割は車椅子ウォーカーとして撮影編集や、企業や学校などで講演活動をしています。

 

 

――車椅子ウォーカーを始めたきっかけは何かあったのでしょうか。

 

友理子さん:息子のために車椅子でも入れるビーチを探して、なんとか見つかったことですね。情報が車椅子利用者の状況を豊かにすると実感しました。こうした情報を動画で共有できたらいいのなと思っていたら、テレビ製作会社に勤めている方がボランティアで協力してくれることになりました。120本以上動画を公開しておりますが、ANAさんに協力いただいて「車椅子でどのように飛行機に搭乗するの?」という動画を公開したら反響が大きかったです。

ただこれは私からの一方向の発信です。車椅子ユーザーの先輩はたくさん居ますし、現地にいる方がより多くの情報をお持ちなのに、私が撮影のために行って情報を公開するのは情報の正確性や効率性に限界があります。車椅子ユーザーから情報を投稿できるシステムを作りたいと思いました。しかし、見積もりお願いしたところ金額があまりに高額で驚愕していたところ、Googleインパクトチャレンジを知り採択に繋がりました。

ただこれは私からの一方向の発信です。車椅子ユーザーの先輩はたくさん居ますし、現地にいる方がより多くの情報をお持ちなのに、私が撮影のために行って情報を公開するのは情報の正確性や効率性に限界があります。車椅子ユーザーから情報を投稿できるシステムを作りたいと思いました。しかし、見積もりお願いしたところ金額があまりに高額で驚愕していたところ、Googleインパクトチャレンジを知り採択に繋がりました。

洋一さん:車椅子ユーザーの方々にお会いすると、妻は私がついているからどこへでも行くことが出来ますが、実際に外に出るのは大変だという声が聞こえてきました。

自宅や施設で過ごす方もいて、どうしても気持ちが内向きになってしまい、社会との距離が離れてしまいますが、そうあってはほしくないという気持ちが大きいです。

 

友理子さん:私がブログやFacebookなどで、どこどこ行ってこういう車椅子のサポートがあった、というのを書くと自慢か?と実はネガティブな反響もありますが、情報を発信することによって、車椅子ユーザー本人だけではなく、家族や周りの方々に届いて欲しいという狙いがあります。諦めるのではなく、ここなら大丈夫かも、と考えてくださるきっかけになれればいいなと思っています。一人で新幹線に乗りましたとか、今度みかん狩りに行きたい、って感想を寄せてくださると何よりも嬉しいです。

 

洋一さん:周りの方も諦めていたり、情報を遮断してしまっているケースが多くありますね。少しでも間口を広げたら見方が変わるかなと思います。

 

 

――ご主人にお話しを伺います。

こういう状況を受けたからこそ「俺たち、やらなきゃ」みたいに思われて、おやりになっていますよね。お二人は一緒に見えて仕方ないですね。どちらが偉いという話ではなく。奥様の状況を支える、という気持ちがもちろんスタートかと思いますが、大きなものを動かしたいという気持ちは一緒なんでしょうか。

 

洋一さん:性格が明と暗みたいな感じですごく対照的なんです。私の性格ではたぶん成し得ない、知り得ない世界、見えない世界が、一緒にいることで見えるわけですし、活動することでいろいろな人と知り合い、どんどん輪が大きくなっています。一緒にいることで不思議な体験ができますし、こんなに活発な妻を、家にずっとこもらせて寝かせておくのはもったいないと思うんです。私が動きをサポートして、身の周りのことをサポートすることで、現在のような社会的な活動ができるので。

 

 

――何年ぐらいご一緒にいらっしゃるのですか。

 

洋一さん:学生時代も同級生で16年経ちますね。

友理子さん:病気がわかる前から付き合ってます。私の病気がわかってからは逃げると思いました。正直なところ、逃げてもらったほうがいいかなと思いました。哀れみや偽善で付き合ってもらうのは嫌で、結構強い言葉、きつい言葉で別れ話をしました。結局今も一緒に居ますし、不思議な人だなと今でも理解に苦しむことがあります。

 

 

――まさに人間の表面の話じゃないのかなと思いました。

 

洋一さん:母親にも言われたのが、「病気はいつなるかわからない、結婚してからなる人だっている。」ということです。そういう人生のタイミングというのは誰にもわからないことですし、当時の僕は彼女が病気になろうがなるまいが、彼女らしさというところがたぶん一番大事なんだろうなと思っていました。あの頃の彼女は心が強いというよりも、必死に病気と向き合っていこうとしてたんですね。診断を受ける前も自分でもインターネットで調べていて「何の病気かわからないよりも病名がついて嬉しかった、よかった」と言っていて、物事は捉え方次第だなと思いました。妻の病気をマイナスに捉えるかプラスに捉えるか、捉える人によってそれは変わってくる。その先の人生まで変わってくるので、私の捉え次第だと思いました。あとは、あんまり先のこと考えるよりも今を積み重ねていって、その先に先々のことが見えてくると思ったので、あんまり先は考えないで今を大事にしていこうと思っています。

 

 

――この人にこの人ありですね。

 

友理子さん:お義母さんも大反対せずによく許可してもらえたなと思っています。大切に育ててきた大切な息子ですし、心の中で葛藤はあったと思うのですが。親族みんなが「頑張りなさい」って応援してくれたのです。

 

 

――そこは励ましになりますね。これから先の活動あるいは家族として、目標とか夢はありますか。

 

友理子さん:海外に住む車椅子の友人から「日本はバリアフリーじゃないでしょ?」と言われたことがあります。その時私はこれが海外から見た日本の現状なんだと思い知らせれがっかりしたのと同時に、日本も都市部を中心にバリアフリーが進んでいることを知ってもらえれば、もっと海外から車椅子の人が来てくれはずだとも思いました。

――インバウンドで日本にいらっしゃる皆さんに情報を提供しようということですね。

 

友理子さん:以前車椅子ウォーカーで、東京観光財団さんから委託事業をされたことがありました。東京駅からスタートしてJRに乗り、新橋でゆりかもめに乗り換えてお台場に向かい、お台場で観覧車乗ったりダイバーシティへ行ったりといろいろなお台場を楽しんだ後、水上バスに乗って浅草に向かい、浅草寺や仲見世通りを楽しんで人力車にも乗って、バスや電車に乗って、スカイツリーまでという一連のバリアフリー観光ルートです。道は車椅子が大丈夫かと3回行き来して検証し、周辺のトイレ情報も集め、12本の動画にまとめて公開しました。。動画はさすがに日本語と英語だけでしたが、Webページはフランス語、イタリア語、タイ語など10言語対応で公開していただいて、私にとって一番楽しかったお仕事でした。

日本は比較的バリアフリーのはずなのですが、語学の問題もあってか、海外ではあまり知られていないですね。欧米はバリアフリーというイメージがあるかもしれませんが、日本は狭いとか自然が多いとか、バリアフリーだとは思ってもらえていないです。先日カナダ人のYouTuberの方に、日本のアクセシビリティについてインタビュー受けましたが、そういった話も今後は自信を持って車椅子の方も海外のお客様をお迎えしていける十分な国だと情報発信していきたいです。もっと海外と連携していくことを視野に入れていて、昨年9月バンクーバーに行き元市長の車椅子の方にお会いしたりと、これからもいろいろ世界と繋がっていきたいと思います。

 

 

――東京以外にも「うちをバリアフリーの町にしたい」とかで手を挙げているところはあるのでしょうか。

 

友理子さん:鹿児島に一度取材に伺わせていただいたことがあります。その時は市議会議員の方が飲食店やフェリー、ホテルなどかけあってくださって撮影させてもらいました。クルーが同行すると、経費がたくさんかかってしまいますが、私たちは千葉に住んでるので、2020年東京オリンピック/パラリンピックに向けて、隣接する東京などの情報を公開していくことが、一番手を打たなければいけないところかなと思っています。品川区でも駅から市役所までのバリアフリールート動画を委託していただきました。

 

 

――バリアフリーという視点から見て、日本と海外の一番の違いは何だと思いますか?

 

友理子さん:以前留学していたデンマークのコペンハーゲンでは、町中に半日もいないのに、10人ぐらい車椅子や障がい者の方を見ました。日本ですと、一日動いて2、3人見つけるのが精一杯の状況です。コペンハーゲンの道は石畳でガタガタしていますが、社会保障システムがしっかりしていて障害者でも外に出ていける、そういう国が作られています。結局のところどんなに福祉国家といっても、町の中を見渡してどれだけ社会の中に障害者の方が住んでいるか、溶け込んでいられるか、が福祉先進国であるかどうかを図る指標になると思っています。

それには心のバリアフリーを推進していかなければ。たとえばエレベーターを譲ったり、車椅子駐車場や多目的お手洗いをなるべく使わないでいてくれたり。一般的に車椅子は大きいので邪魔だよと思われるかもしれませんが、ベビーカーを押すお母さんたちや、ちょっと足腰が悪くなってきた人から車椅子に向けられる目は、すごく温かいです。10年来の私の友人も「最近までベビーカーを押したことなかったけれど、押してみたら大変なことがわかったよ」、「車椅子って大変なんだね」、「エレベーターを見つけるのも大変だし、スロープ探さなきゃいけないし」と言葉にしていました。生活環境が変わっていくことによって、年を重ねることによって、そういった理解者が増えていくことも面白いなと思っています。人生経験が豊かな方ほど、温かい心をお持ちだなと感じるます。日本人は照れ屋なだけで、優しい人が多いですよね。

海外が特に優れていると感じるのは、周りへの気配りです。例えば、ビルの入り口のドアを開けた人は後ろに誰かいないかを確認してからドアを閉めます。日本にもこうした周りへの配慮が当たり前になることを期待しています。

 

洋一さん:日本は町中で見かける車椅子の人が海外と比べると少ないですね。車椅子ユーザーは日本だけでも200万人以上と言われていて、人口比から60人に1人くらいなので少なすぎますね。車椅子の人がもっと外に出ることができる、そういう社会を目指すのが最終目的です。

 

――お二人、どうもありがとうございました。


さて、来たる2017年2月21日(火)の第8回若者力大賞では、表彰式にて織田友理子さん 洋一さんご本人の受賞スピーチもございますし、交流会にもご参加いただける予定です。ぜひ、若者力大賞にご参加ください。 

「第8回若者力大賞」表彰式&交流会の詳細と参加申込はこちらからお願いいたします。