平成21年にスタートして以来、毎年実施しています「若者力大賞」。
これまで多くの若者たちを表彰して参りました。
日ごろ、社会のための活動に熱心に取り組んでいる若者たちや、ハンデを乗り越えて自らに挑戦する若者たち。次代を担う子供たちの目標となるような彼らの努力を讃え、また、周りの大人たちにその活動内容を伝えて、応援を送ってもらうことを目的として実施しています。
表彰式で報告される彼らの活動の陰には、私たちの社会が抱えている問題が必ず存在しています。その改善のために努力を惜しまない姿に、会場は、毎回感動を与えてもらっています。
そうした彼らの活動を、もっと多くの人々に知ってもらいたい。
そして、一緒に彼らの活動を支える力になっていただきたい。
そう願って、受賞者講演会を開催することといたしました。
記念すべき第1回目の講演会は、昨年度の第7回若者力大賞ユースリーダー賞受賞者、高桑早生さんを迎えて、開催しました。
■講師プロフィール
高桑早生さん(エイベックス所属・パラリンピアン)
1992年埼玉県生まれの現在24歳。
慶應義塾大学総合政策学部・體育會競走部卒業。
中学の時に骨肉腫で左下腿を切断。
高校で本格的に陸上を始めると、才能を一気に開花させ、20歳でロンドンパラリンピックに出場。仁川アジアパラ競技大会では日本選手団の旗手を務めた。
2015年のIPC陸上競技世界選手権大会では、幅跳びで銅メダルを獲得。
2016年5月の日本選手権で100m(T44)でアジア記録を更新。
リオデジャネイロパラリンピック陸上の日本代表として、 100m8位・200m7位・走り幅跳び5位に入賞。
■主催/公益財団法人日本ユースリーダー協会 若者力大賞実行委員会
■後援/一般社団法人日本パラ陸上競技連盟
■講演内容
みなさん、こんばんは。エイベックス・チャレンジド・アスリートの高桑早生です。
本日はどうぞよろしくお願いします。
まずは簡単にプロフィールを紹介させていただくと、現在24歳、埼玉県出身です。慶應義塾大学総合政策学部を卒業し、體育會競走部(いわゆる陸上競技部)で4年間、健常の学生とトレーニングしていました。障害者アスリートは4年間の中では私一人でしたが、全国的には少しずつ増えており、今後もっと増えて欲しいと願っています。現在はエイベックスホールディングス所属のチャレンジド・アスリートとして、アスリート活動と業務を半分半分でやっています。
・障害者陸上アスリートになったきっかけ
13歳の時に骨肉腫という骨のガンになり、左足の膝下を切断し、義足の生活になりました。骨肉腫はスポーツをやっている成長期の子によく現れる小児ガンです。私もそれにもれず、小学4年から中学までテニスを一生懸命やっていました。高校では何か新しいことを始めたいと思い周囲の友人選手の影響もあって陸上競技部に入り、そこから私の陸上競技漬けの生活が始まります。
・ロンドン、そしてリオパラリンピックに出場
大学2年でロンドンパラリンピックに初出場し、100mで7位、200mで7位でした。走り幅飛びは予選落ちしましたが、昨年2015年のIPC世界陸上競技選手権大会(健常者でいうところの世界陸上)では走り幅跳び3位と、銅メダルを獲得しました。世界レベルの大会では初めての表彰台です。ロンドンから4年間リオだけを考えてトレーニングし、ロンドンを超えることを目標に臨んだ結果は、100mで8位、200mで7位、走幅跳で5位でした。ロンドンを超えたものもあれば超えられなかったものもあり、2週間近くの浮き沈みの激しい大会でした。
障害者スポーツの世界、特に陸上にとどまらず個人競技の世界は、選手の成長が著しく、レベルはオリンピックの比でなく毎年上がっています。4年前の金メダリストが同程度の記録では予選落ちすることさえあります。そんな中で必死に食らいつき、出場三種目で入賞できたこと、100mと200mで自己新記録を出せたことは、アスリートとしての成長を感じています。
・お祭りのような大会、リオ
チケットの売り上げは日に日に上がり、最終的には歴代二番と、北京パラリンピックの入場者数を超えました。陸上に関しては、連夜満員になるほどの歴代一位ロンドンほどではなく空席はあるものの、ロンドンに負けないくらいの声援、どこかにスピーカーがあるんじゃないかと思うくらいの大きな声援が聞こえました。これが南米のラテンのノリか、盛り上がったお祭りのような大会だと、皆で話していました。
事前報道では南米初の開催ということで不安面も言われていましたが、選手は安全に日々生活と競技ができ、いいパラリンピックだったと思います。
・テレビ中継があることに感動
4年前のロンドンパラリンピックや1年前の世界選手権との一番の違いは、報道のされ方です。何よりテレビ中継があったことには感動しました。日本でどう報道され、家族や友人がどう見ているかは現地ではわかりませんが、帰国して人々から「見たよ」と言われると「どうやって?」と聞き返すくらい、パラリンピックを見てもらえることに慣れていない自分がいました。多くの方に見て頂けたのは選手として凄く嬉しかったですし、4年後の東京パラリンピックに向けて大きな一歩になったと思います。テレビは多くの人が触れやすいものなので、今後もいろんな大会で映像が皆さんの目に触れる機会が増えてくれるといいなと思います。テレビだけでなく新聞・雑誌でもたくさん注目して頂きました。
私は「パラリンピックを知ってもらいたい」と、伝える活動を大事にしてきたので、私の力ではありませんが、徐々にそういう社会が成り立ちつつあるのは本当に嬉しいです。今後も注目していただくためにも、「オリンピックの次にはパラリンピックがあって、こんな凄い記録が生まれるんだ」、そう自然と感じてもらえるようなプレーヤーに私自身なっていきたいと思います。今回たくさん報道していただいて、注目は選手にとってプレッシャーであると同時に、自分を成長させるきっかけにもなると思いました。
・そもそもパラリンピックとは?
パラリンピックの語源はpara(parallel)「もう一つの」という意味です。身体に障害を持つ人が行う障害者スポーツの最高峰で、一番大きな目標にです。
パラリンピックへ行くまでのプロセスを簡単に説明すると、まず、リハビリレクリーションから始まることが多いです。全国障害者スポーツ大会といって、国民体育大会の後に行う、ちょうどオリンピック・パラリンピックと似た関係性の大会があります。その後の大きな大会へのジャンプアップになる大会で、国体の後なので規模が大きく、たくさんの選手が参加できます。次に、ジャパンパラリンピックといった国内の大会を経験し、パラリンピックや各世界選手権につながっていきます。
・競技者に求められるのはブレークスルー
各ステップを上がっていく時に大事なのは、ブレークスルーがあるかどうかです。もともとスポーツは好きでしたが、ある種リハビリに近い感覚で走り始めました。一回目のブレークスルーは、全国障害者スポーツ大会の大分大会です。北京パラリンピックの年だったこともありパラリンピアンも出ており、彼らのパフォーマンスを初めて生で見て単純にすごいな、かっこいいなと思ったことがきっかけです。私も彼らのようにもっと上を目指したいとパラリンピックが目標として出来上がり、国内大会、海外遠征をこなす中で二回目のブレークスルーが起こり、目標は現実味を帯びてきます。
こういう段階を追ったステップアップが大事だと思います。私の場合、毎年タイミングよくいい大会がめぐってきて、試合運がいいという感覚があります。2008年は出場してはいませんが北京パラリンピックに衝撃を受け、2009年にはアジアユースパラレースという国際大会を東京で初めて経験し、2010年は広州アジアパラリンピックに出場、2011年に大学に入学して、2012年にロンドンパラリンピックに出場しました。自然な流れで大きな目標に向かい、めぐってきたチャンスで出すべき記録をしっかり出す。そうやって、きっかけを重ねることでステップアップしてきました。何かをきっかけにステップアップをしていくことは、スポーツだけでなく大事なことだと思います。私はそれをスポーツで感じました。
そもそも自分が義足にならなければ日本代表になることがあったのかな、ということも最近は考えます。一生懸命何かに取り組む、しかもそれが大学を卒業したらお仕事の一部になる。そうしたことも、もしかしたら義足にならなければ経験できなかったことかもしれません。だからと言って皆さんにも義足になれとは言いませんが(笑)、皆さんの生活においても、何かをきっかけに自分の運命が大きく変わっていくようなことはあると思います。きっかけを大事にして頂けたらと思います。
・パラリンピックをより楽しむために ―「クラス分け」とは
パラリンピックには「クラス分け」というものがあります。これが分かると、競技の見え方が変わります。私の大学の部活の先輩でこのクラス分けにハマり、私に次々に聞いてきて詳しくなった方もいます。皆さんにも面白いなと感じていただけたらと思います。
陸上競技の場合を説明しますが、私のクラスはT44です。TとFはトラック種目かフィールド種目かを表していて、十の位が障害の種類、一の位は障害の重度です。40台は切断・欠損や機能不全を表し、4は片足を表すので、44は片足の膝はあるけどその下は切断もしくは機能がない、ということです。このように三つのアルファベットと数字の並びでどんな種目か分かります。
数字が小さくなると障害の重度が少しずつ重くなります。43は両足の切断・欠損で、42は片大腿の切断・欠損、膝関節がないことを表します。45になると今度は腕になって、上腕切断・欠損です。
クラス分けが分かると、「ああ、この種目は片足切断の人の100mなんだな」と、パラリンピックがより理解しやすいと思います。
・進む、見せる<魅せる>ための工夫
とはいえ、クラス分けを全部覚えるのは大変です。どんな障害か分かりにくいのは、パラリンピックを見づらくしている原因の一つでもあります。陸上の100mだけでもいっぱいありますし、陸上だけでなく水泳など個人種目でも大体あります。団体種目では障害の重度によってポイントの持ち点があったりもします。
そこで、クラス分けの「見える化」が徐々に進んでいます。例えばロンドンパラリンピックで使われたスマホアプリ「レクシー」は、目で見てどんな障害か分かるシステムです。国内でも「見える化」のシステム開発の動きはあり、「この100m何だっけ」という時にちょっと調べると、どういう障害の100mかすぐに分かります。
パラリンピックをいろんな人に見て頂くためには、もっと見せる<魅せる>ための工夫が必要だと考えています。私たち自身の魅せるパフォーマンスと、見やすいパラリンピックづくり、これらが将来的に実現できるといいなと思います。
そもそも障害者スポーツに興味を持っていただくためのプロモーションも世界各国で行われています。障害者スポーツをかっこいい映像にして人々に見てもらう動きです。東京都によるプロモーション映像「Be The HERO」には私も出演していて、ぜひ検索して観ていただけると嬉しいです。代表的なのは、ロンドンパラリンピックの時にイギリスの民放チャンネル4が発表した「Meet The Superhumans」です。大変衝撃的な映像で、Superhumansシリーズは今年も発表され、私も何回も見ちゃうくらいお洒落でかっこいい映像でした。
そんなコンテンツ作りが、日本では東京都や企業、競技団体によってどんどん増えてきています。こうやって見られる機会を増やしていくことで、パラリンピックの置かれる環境は目まぐるしく変化しています。東京パラリンピックが満員となるように、こういったものを利用していってほしいと感じています。
・Parallel Olympic〈もうひとつのオリンピック〉へ
〈パラリンピック〉は言葉通り、Parallel Olympic〈もうひとつのオリンピック〉へと成長し続けています。メディアの注目、かっこよく見せるプロモーション、企業の応援などあり、いい意味で変わっていっています。なので、果てには、パラリンピックをひとつのスポーツイベントとしてぜひ楽しんでいただきたいと思っています。
まだまだパラリンピックは、痛々しいまでは言わないですけど障害を負った人が頑張って活躍する舞台という受け止め方もあり、そこにも確かに感動的なストーリーや選手の背景など惹かれるものはありますが、それ以上に、選手はパラリンピックアスリートという一人のアスリートとして成長し続けています。また、現場で競技者として感じますが、日々アスリートとしてのアイデンティティーを確立させていっています。
少し前まではフルタイムでお仕事をして夜空いた時間に練習していたパラリンピアンがほとんどだった歴史もありますが、今はアスリートとしてスポンサーの支援などあり、オリンピックのアスリートと同じような環境を整えられるようになっているのが世界の流れです。日本でもそういう環境は徐々に整いつつあります。アスリートとしての確立は、パラリンピック記録の向上、人々を感動させるパフォーマンスを生む一つの要因でもあると思います。私自身も世界と戦ってメダルを取れる選手になっていきたいですし、若い選手にもアスリートとしてのアイデンティティーの確立を成し遂げてほしい、また自然とそういうものが成し遂げられる社会になることを望んでいます。
私も今本当にいい環境で競技させて頂いて、それに甘んじず常に上を目指して頑張りたいと思います。4年後の東京パラリンピックではメダル獲得をぜひとも実現させるべく頑張ってまいりますので、アスリート高桑早生を、日本のパラアスリートたちを、そしてパラリンピックを、今後も応援して頂けたらと思います。
・告知 -4年後に向けて大きな大会が目白押し
まずは来年2017年7月にロンドンで開催されます。IPC世界陸上競技選手権が7月14日から23日、そのあとにIAAF世界陸上です。なんとこの二つの大会が続けて、それも同じ都市で、というわくわくするようなタイムスケジュールです。しかもパラリンピックが先に来るチャレンジングな試みで、どういう結果になるのか非常に楽しみです。
そのあとはアジア大会もあります。私自身いい報告ができるように頑張ってまいりますので、応援よろしくお願いします。ご清聴ありがとうございました。
■質疑応答
Q1.自然な流れでステップアップしてきたとのことで、試合経験はとても順調そうに聞こえましたが、しんどい時期はありませんでしたか?もしあれば乗り越えた秘訣とあわせて教えてください。
A1.挫折まではいきませんが、行けなくてショックな大会は一つありました。2011年の世界選手権、クライストチャーチでの大会です。2010年のアジアパラの勢いで行けると思っていましたが、標準記録の壁に阻まれました。当時は大学受験もありそこまで重要視していませんでしたが、一つ大きな大会に行けなかったのはショックでした。しかし私は鈍感なのか、スランプや挫折をそう感じない部分がありまして、「これはとりあえずこれでいいや、次頑張ろう」と比較的早くスイッチを切り替えます。記録が伸び悩む時期はありますが、競技を続けてやっていると当然に起きることで、そこでくよくよしてもしょうがないと思います。振り返ればいろいろありましたが、その程度のことしかなかった、その程度のことしかないと感じられること自体が幸せなのかなと思います。そこは自分の性格に感謝したいです。
Q2.障害者スポーツ機具の進化が進んでいて、おっしゃっていたように4年前に比べたら優勝者が予選すら通過できないと。これに関してはもちろん身体の丹念もあると思いますが、例えば野球なら金属バットを導入しても結局木に戻るといったこと、陸上で義足の選手が健常の選手を超える記録を出したこともありました。この辺りのことを率直にどう感じるか、これがどういう方向へ向かうと思うか、テクノロジーはますます進化すると思いますがどこかで折り合いをつけなきゃいけないかとか、そういうところをお聞かせいただければ幸いです。
A2.テクノロジーの進化、義足のアスリートが健常のアスリートを超えたことは最近凄く注目が集まりました。難しい問題だと思います。そもそも義足を扱っている選手とそうでない選手を比べる議論というのは、議論が起きることに意味はあると思いますが、私の率直な感想として、比較することはできるのかな、と思います。間違いなく言えることはあくまで義足を扱うのは人間であって、誰しも義足になれば健常者を超えられるわけではないというところははっきりさせておきたいと思いますし、だからこそパラリンピックがあるのかなと思います。私自身パラリンピアンとしての誇りは相当あって、競技者としてより高いレベルで戦いたいと思うことは当然ですが、私たちにはパラリンピックという舞台があって、それが用意されることによっていくらでもレベルの高い競技ができるようになってきたことは、論争が起きると同時に、パラリンピックのレベルが上がってくるいいことだなと思います。ただ健常者との比較は簡単にはできないことで、私自身よく聞かれますが、一つの答えはまだ出せておりません。義足に注目が集まるのはいいことだと思いますが、ただ、扱っているのは人間なんだということははっきりさせておきたいなと思います。
Q3.パラリンピックでほかの国の選手の方々とはどのようなコミュニケーションがありましたか?
A3.印象的だったのは、みんな意外と東京を楽しみにしていることです。私のクラスにはヨーロッパの選手が多く、あるイギリス人選手に「4年後は東京だね。アジアには行ったことがないからとにかく楽しみ」と言われました。東京を魅力的に感じてもらえていて、そこで行われるパラリンピックに海外の選手も期待していることが分かりました。もらった言葉で一番嬉しかったです。
Q4.オリンピックとパラリンピックの開催期間を反対にした方がいいという意見にはどのようなお考えでしょうか?
A4.現状では反対にしたところでそんなに変わらないと思います。「オリンピックがあった後にパラリンピックがあったの?」という現状が逆になり、「オリンピックがあって、あれ、そういえばパラリンピックっていつあったの?」と。実際やってみないと分からないし、今回のロンドン世界選手権が一つのチャレンジになると思いますが、現状としてはオリンピックの後にパラリンピックがあった方がいいかなと感じています。